宮崎駿の私小説としての『風立ちぬ』



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宮崎駿監督作品の『風立ちぬ』を昨日のテレビ放送で観た。僕が初めて観たのは小学生高学年の頃であって、そのときは菜穂子の喪失という、ストーリーにおける「堀辰雄の物語」に感動したものであるが、どうやらこの映画の本質は「堀越二郎の物語」にあるようだ。

 

宮崎駿の語る「堀越二郎の物語」とはなにか、それは夢を追いかける創造的人生の狂気とその代償の物語である。「美しい飛行機をつくりたい」という二郎のあまりにも純粋な夢は、時代の必要から軍用機というかたちを取らざるをえなかった。美しい飛行機をつくる創造性が即ち、戦争の破滅性に直結するという皮肉な構造は、堀越二郎の自己矛盾であり、また同時に宮崎駿の自己矛盾でもある。「彼ら」のアンビバレントな感情がとらえたのは、彼らの創造性だけではなかった。それは、より象徴的な意味における菜穂子の存在でもある。自己の理想を追い求めるために大切なものを失っていった宮崎駿の筆は、「美しい飛行機をつくる」夢を追い求める二郎から、なんとしても菜穂子を奪わなければならなかった。死にゆく運命の菜穂子が二郎のもとを去った直後に、九試単座戦闘機が青空を美しく飛行するさまは、創造性が本質的に包含する狂気を見事に描いている。そして零戦がつくられる。そして日本は破滅へと向かう。すべては必然であった。

 

僕には、堀越二郎宮崎駿を重ねあわせ、同一視する見かたは野暮に思われる。しかし、二郎の抱いた葛藤は、紛れもなく宮崎駿の抱いた葛藤であった。風立ちぬ宮崎駿私小説なのだ。