個性について

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 小林秀雄の「ゴッホの絵」という文章のなかで、1921年にケルンで開かれた絵画展に際してのヤスパースの印象が次のように引用されている、「ゴッホの驚くべき傑作とともに陳列された全ヨオロッパの千篇一律な表現派の作品を見ながら、狂人たらんことを欲してあまりに健康なこれらの多数者の中にあって、ゴッホだけが唯一人、高邁な、自分の意に反しての狂人であるという感を、私は抱いた」と。これを、ゴッホの唯一無二の天才に対する賛辞と読むこともできるが、むしろヤスパースゴッホという対象を借りて、人間の個性というものの本質に肉迫しているのが、この文章の味わいに思われる。およそ、市民革命に端を発する近代精神なるものの発生に伴って、画家たちは競って個性を表現しようとしたが、そんなものは「狂人たらんことを欲してあまりに健康」であるにすぎない、ただこの南仏の田園画家のみが「自分の意に反しての狂人」ではないか。世の中では表現主義だのやかましく言っているが、ゴッホの下心のない純真な精神の描く椅子やら跳ね橋、肖像画のほうが遥かに独創的でないのか。個性的であろうとして、いかにも没個性的なこれらの膨大な作品たちのなかで、唯一無二の輝きを放つゴッホの純朴な狂気は、個性とは、意図的に作り出す類いのものではない、自己と闘って獲得するものなのだと語っている。
 私達がよく知るところのゴッホの作品群は、南仏のアルルにおいて、拳銃自殺に至るまでの、たった一年程度のうちに、恐るべき速度をもって描かれたものである。描いてはまた描くといった毎日は、彼にとって労働というよりも、ある種の闘争であった。画家は絵を描くことが第一義である、そう悟ったからには、自己の精神と戯れることなど何の意味をもなさない。ただ描けばよいことだ。そうやって、間断なき自己との闘いのなかから、いよいよ自然(spontaneous)に発生してきたのがゴッホの個性なのだ。これを前に、自己愛に満ちた作為的な「個性」が、いかに陳腐に映ることか。ヤスパースがケルンで目撃したのは、正にこういうことであった。
 優れた芸術家はみなこのことを理解している。僕の敬愛する即興音楽家キース・ジャレットは、原始社会の人々にとって「音楽を演奏するということは、実は、生き残るか自殺するかの選択」であると言うが、これは同時に、彼の音楽に対する姿勢そのものであって、瞬間瞬間の創造の過程に最も深く関わるキースの即興演奏もまた、一種の生存闘争に他ならない。加えて彼はこう言う、「自分を覚醒した状態にするためのひとつの方法は、スポンテニアスになること。スポンテニアスになれば自分のくだらないアイデアとよいアイデアの区別がよく聴こえてくる。何もかも準備した状態ではその経験はできない」。ここでは、即興演奏における自発的な姿勢の重要性が解かれているが、これは真に創造的な人格の個性の問題と地続きであって、ゴッホの個性が絶えざる制作の努力の自然的所産であったことが重なってくる。本当の意味での創造とは、生きるか死ぬかという選択を常に突きつけるものだ。詭弁でも何でもない、これを誇張と考える人間こそが「狂人たらんことを欲してあまりに健康」な自己愛の精神を「狂人」と錯覚するのだ。
 今日の教育はひっきりなしに個性の至尊をうったえるが、誰も本当の個性がなにかわかっていない。個性とは自己を克服せんとして獲得されるものだ。そんなこともわからないから、個性の美名を借りた自己愛が蔓延する。小林の言葉を拝借するなら、この世には2種類の人間が存在するだろう。即ち、自分と戯れている人種か、それとも自己と闘っている人間か。後者は死に絶えつつあるのだろうか。